帝国軍隊における学習
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帝国軍隊における学習
「帝国陸軍における学習・序」「死ぬ奴」(富士正晴・未来社・1963年)読了。
前者は、帝国陸軍・軍隊教育の実態を明らかにしたものであるが、「教育召集兵」の中から、「成績下位」の者ほど、「見せしめ」「懲罰」として前線に送り込まれる「風潮」があったこと、したがって、最前線の部隊は「戦闘能力の低い」兵士によって編制されることになり、敗戦は必然であった、という作者の見解は「至極もっとも」だと思う。後者は、前線で「死ぬ奴」とは、どういう心情の持ち主であるか、その人物像(生に対する執着、現状を嘆き悲しむ、未練がましい性格、それはいざというときに自己保身に走る)があざやかに浮き彫りにされていた。「生き抜く」ためには、国に残してきた家族、妻子などへの「未練」を断ち切ることが大切であることが必要である(必要であった)という作者のメッセージが「ひしひしと」伝わってきた。
はからずも、NHKテレビ「クローズアップ現代」では、イラク戦争5年目の現状を伝えていたが、本国に帰還した米軍兵士が「続々と」精神不安(「心的外傷後ストレス障害・PTSD)に襲われ、ホームレス化しているという。「戦争」に「勝利」「栄光」はないことを、あらためて思い知らされた。昔綴った雑文(新聞投稿コラム・東京新聞に一部採用)を思い出す。
米軍兵士「死の理由」(ボツ原稿)
まもなく、イラク戦争による米軍兵士の戦死者は三千人に達するだろう。彼らは何のために死んだのだろうか。イラクの大量破壊兵器を見つけ出し、テロリストからアメリカ国民を守るためか。フセインの圧政からイラク国民を解放し、民主的な国家建設を支援するためか。それとも、異教徒に対する、クリスチャンの「聖戦」のためか。いずれも、彼ら自身及び遺族を納得させる理由にはなるまい。戦争の「大義名分」は、開戦の動機づけとして濫用されるに過ぎず、決して戦死者への「鎮魂」とはなり得ないからである。
イラク戦争におけるアメリカの「軍事的」勝利は、同時に、自国民の「普遍的(良心の)」敗北を意味している。その勝利は、イラク国民(推定)十五万人の犠牲(死)によってもたらされたことを忘れてはならない。いかなる戦争にも「良心」の勝利はないのである。
戦後六十余年、「平和ぼけ」の中で「経済大国」への道をたどった、私たち日本国民は、少なくとも、新たな「戦死者」への鎮魂をする必要がなかったことを「是」とすべきであり、「不戦」の具現こそが「人類の平和」を可能にすることを、全世界に向けて主張し続けることが大切だと思う。
特攻と自爆テロ(一部採用原稿)
かつて多くの特攻隊員の姿を間近で見つめた、元海軍少尉は、特攻と自爆テロは「全然、違う」と断じながら、「自爆テロ犯の本当の心情は、私にはわからない。彼らにも守りたい伝統や文化、国土があるのだと思うし、命を捨てる苦悩もあると思う。」とも述べている。(東京新聞8月14日朝刊「命とは問いつつ特攻・記憶・20代記者が受け継ぐ戦争・3)
歴史、イデオロギー、宗教上の視点からみれば、特攻と自爆テロは「全然、違う」かもしれない。しかし、その違いを超えた「ある共通点」を見逃してはいけないと、私は思う。 それは、家族はもとより、自国(民族)の国土、伝統、文化を守るために「命を捨てる苦悩がある」という点である。戦争(戦闘行為)とは、畢竟「人殺し」に他ならないが、それを「自殺」という方法で行おうとしていることが、両者に共通している。
米国陸軍中佐デーヴ・グロスマンは「何百年も前から、個人としての兵士は敵を殺すことを拒否してきた」ことを証明している。(「戦争における『人殺しの心理学』・ちくま学芸文庫)戦場では、殺される恐怖よりも、殺す恐怖(罪悪感・苦悩)の方が大きいという。
だとすれば、戦争という「人殺し」をしなければならない立場の兵士が、敵を殺す罪悪感から逃れるために、「命を捨てる苦悩」を選んでも不思議ではないだろう。
自爆テロ犯の本当の心情は、「愛する家族、国土、伝統、文化を守るために、『人殺し』をしなければならない。でも『人殺し』は罪悪であり、自分の命を捨てることが、その償いになるのでは・・・。少なくとも敵が苦しむ姿を見なくてもすむ」というようなものであったかどうか、私にはわからない。
人類の歴史において、「戦争」(殺人)は連綿と繰り返されてきたがきたが、「真の勝利者」などあり得ない。戦勝国の「生還した兵士」がもらう勲章(名誉)は、「人殺し」の罪悪感を消し去るための免罪符だが、彼らは「戦死した兵士」より以上の「苦悩」を負って生き続けなければならないのではないか、と私は思う。
ヒトはなぜ「戦争」をするのか(ボツ原稿)
ヒトはなぜ「戦争」をするのか。答は簡単である。ヒトは「戦争をする」ように生まれついた動物だからである。人間の歴史をふりかえればわかるように,ヒトは,いつの時代でも,どこの地域でも,数限りない「戦争」を繰り返してきた。
「戦争」とは,人間同士の殺し合いのことだが,その前にヒトは「雑食動物」として,周囲の動植物を平然と殺している。「殺す」という行為を日常的に繰り返さなければ,人間は自分の命を守ることができない。それが,「人間の運命」なのである。「殺す」という行為は正当化され,たとえ相手が人間であっても殺してよい場合があるという論理が構築される。
ヒトが「戦争」をするのは,直接,相手を「食べる」ためではない。しかし,自分の食物を確保するためなら,自分の命を守るためなら相手を殺してもよいという「正当防衛」「緊急避難」の理論が法律的にも許容されている。
しかし,ヒトは「戦争」をしたくない。なぜだろうか。それは「ヒトを殺したくない」という豊かな感性と,殺し合うことは野蛮であり,決して人間生活の役には立たないと考える高度な知性を持っているからである。
したがって,大切なことは,豊かな感性と高度な知性を持っているにもかかわらず,ヒトはなぜ「戦争」をするのか,という命題について考えることだと思う。そのためには,ヒトはこれまでどのように「戦争」を行ってきたか,という行動の分析が必要である。ヒトは「戦争」を行うために,「軍隊」という暴力集団を組織し,能率的に相手を殺傷できるよう軍事訓練を重ねる。さらに,殺し合いに使うために有効な破壊兵器の開発・製造に努める。これらの行動は,「分業」で行われることを見落としてはいけないと思う。
「軍隊」は,どのように「戦争」を展開するか,作戦を考える参謀・司令本部と,その計画・命令を実行に移す前線の実戦部隊に大別される。
つまり,「戦争」はひとくちに「殺し合い」だといっても,実際に殺戮の地獄図を見るのは,最前線の「無名戦士」に過ぎないのである。第二次世界大戦末期,沖縄近海で日本の特攻機と戦った元アメリカ海軍中尉・ウイリアム・バーンハウスは,「年輪を重ねるにしたがい,私には幾つかにことが明確になってきた。一つは,戦争は年老いた軍人が行うという事,二つ目は,その戦争で死ぬのは若者であるという事,そして,三つ目は,最初の一と二は不変であるという事である。」(「我 敵艦ニ突入ス」・扶桑社・2002)と述べた。私たちは,この無名戦士が年輪を重ねて看破した「戦争」の真実から目をそむけてはいけないと思う。そして,イラク戦争は「まだ終わっていない」。
前者は、帝国陸軍・軍隊教育の実態を明らかにしたものであるが、「教育召集兵」の中から、「成績下位」の者ほど、「見せしめ」「懲罰」として前線に送り込まれる「風潮」があったこと、したがって、最前線の部隊は「戦闘能力の低い」兵士によって編制されることになり、敗戦は必然であった、という作者の見解は「至極もっとも」だと思う。後者は、前線で「死ぬ奴」とは、どういう心情の持ち主であるか、その人物像(生に対する執着、現状を嘆き悲しむ、未練がましい性格、それはいざというときに自己保身に走る)があざやかに浮き彫りにされていた。「生き抜く」ためには、国に残してきた家族、妻子などへの「未練」を断ち切ることが大切であることが必要である(必要であった)という作者のメッセージが「ひしひしと」伝わってきた。
はからずも、NHKテレビ「クローズアップ現代」では、イラク戦争5年目の現状を伝えていたが、本国に帰還した米軍兵士が「続々と」精神不安(「心的外傷後ストレス障害・PTSD)に襲われ、ホームレス化しているという。「戦争」に「勝利」「栄光」はないことを、あらためて思い知らされた。昔綴った雑文(新聞投稿コラム・東京新聞に一部採用)を思い出す。
米軍兵士「死の理由」(ボツ原稿)
まもなく、イラク戦争による米軍兵士の戦死者は三千人に達するだろう。彼らは何のために死んだのだろうか。イラクの大量破壊兵器を見つけ出し、テロリストからアメリカ国民を守るためか。フセインの圧政からイラク国民を解放し、民主的な国家建設を支援するためか。それとも、異教徒に対する、クリスチャンの「聖戦」のためか。いずれも、彼ら自身及び遺族を納得させる理由にはなるまい。戦争の「大義名分」は、開戦の動機づけとして濫用されるに過ぎず、決して戦死者への「鎮魂」とはなり得ないからである。
イラク戦争におけるアメリカの「軍事的」勝利は、同時に、自国民の「普遍的(良心の)」敗北を意味している。その勝利は、イラク国民(推定)十五万人の犠牲(死)によってもたらされたことを忘れてはならない。いかなる戦争にも「良心」の勝利はないのである。
戦後六十余年、「平和ぼけ」の中で「経済大国」への道をたどった、私たち日本国民は、少なくとも、新たな「戦死者」への鎮魂をする必要がなかったことを「是」とすべきであり、「不戦」の具現こそが「人類の平和」を可能にすることを、全世界に向けて主張し続けることが大切だと思う。
特攻と自爆テロ(一部採用原稿)
かつて多くの特攻隊員の姿を間近で見つめた、元海軍少尉は、特攻と自爆テロは「全然、違う」と断じながら、「自爆テロ犯の本当の心情は、私にはわからない。彼らにも守りたい伝統や文化、国土があるのだと思うし、命を捨てる苦悩もあると思う。」とも述べている。(東京新聞8月14日朝刊「命とは問いつつ特攻・記憶・20代記者が受け継ぐ戦争・3)
歴史、イデオロギー、宗教上の視点からみれば、特攻と自爆テロは「全然、違う」かもしれない。しかし、その違いを超えた「ある共通点」を見逃してはいけないと、私は思う。 それは、家族はもとより、自国(民族)の国土、伝統、文化を守るために「命を捨てる苦悩がある」という点である。戦争(戦闘行為)とは、畢竟「人殺し」に他ならないが、それを「自殺」という方法で行おうとしていることが、両者に共通している。
米国陸軍中佐デーヴ・グロスマンは「何百年も前から、個人としての兵士は敵を殺すことを拒否してきた」ことを証明している。(「戦争における『人殺しの心理学』・ちくま学芸文庫)戦場では、殺される恐怖よりも、殺す恐怖(罪悪感・苦悩)の方が大きいという。
だとすれば、戦争という「人殺し」をしなければならない立場の兵士が、敵を殺す罪悪感から逃れるために、「命を捨てる苦悩」を選んでも不思議ではないだろう。
自爆テロ犯の本当の心情は、「愛する家族、国土、伝統、文化を守るために、『人殺し』をしなければならない。でも『人殺し』は罪悪であり、自分の命を捨てることが、その償いになるのでは・・・。少なくとも敵が苦しむ姿を見なくてもすむ」というようなものであったかどうか、私にはわからない。
人類の歴史において、「戦争」(殺人)は連綿と繰り返されてきたがきたが、「真の勝利者」などあり得ない。戦勝国の「生還した兵士」がもらう勲章(名誉)は、「人殺し」の罪悪感を消し去るための免罪符だが、彼らは「戦死した兵士」より以上の「苦悩」を負って生き続けなければならないのではないか、と私は思う。
ヒトはなぜ「戦争」をするのか(ボツ原稿)
ヒトはなぜ「戦争」をするのか。答は簡単である。ヒトは「戦争をする」ように生まれついた動物だからである。人間の歴史をふりかえればわかるように,ヒトは,いつの時代でも,どこの地域でも,数限りない「戦争」を繰り返してきた。
「戦争」とは,人間同士の殺し合いのことだが,その前にヒトは「雑食動物」として,周囲の動植物を平然と殺している。「殺す」という行為を日常的に繰り返さなければ,人間は自分の命を守ることができない。それが,「人間の運命」なのである。「殺す」という行為は正当化され,たとえ相手が人間であっても殺してよい場合があるという論理が構築される。
ヒトが「戦争」をするのは,直接,相手を「食べる」ためではない。しかし,自分の食物を確保するためなら,自分の命を守るためなら相手を殺してもよいという「正当防衛」「緊急避難」の理論が法律的にも許容されている。
しかし,ヒトは「戦争」をしたくない。なぜだろうか。それは「ヒトを殺したくない」という豊かな感性と,殺し合うことは野蛮であり,決して人間生活の役には立たないと考える高度な知性を持っているからである。
したがって,大切なことは,豊かな感性と高度な知性を持っているにもかかわらず,ヒトはなぜ「戦争」をするのか,という命題について考えることだと思う。そのためには,ヒトはこれまでどのように「戦争」を行ってきたか,という行動の分析が必要である。ヒトは「戦争」を行うために,「軍隊」という暴力集団を組織し,能率的に相手を殺傷できるよう軍事訓練を重ねる。さらに,殺し合いに使うために有効な破壊兵器の開発・製造に努める。これらの行動は,「分業」で行われることを見落としてはいけないと思う。
「軍隊」は,どのように「戦争」を展開するか,作戦を考える参謀・司令本部と,その計画・命令を実行に移す前線の実戦部隊に大別される。
つまり,「戦争」はひとくちに「殺し合い」だといっても,実際に殺戮の地獄図を見るのは,最前線の「無名戦士」に過ぎないのである。第二次世界大戦末期,沖縄近海で日本の特攻機と戦った元アメリカ海軍中尉・ウイリアム・バーンハウスは,「年輪を重ねるにしたがい,私には幾つかにことが明確になってきた。一つは,戦争は年老いた軍人が行うという事,二つ目は,その戦争で死ぬのは若者であるという事,そして,三つ目は,最初の一と二は不変であるという事である。」(「我 敵艦ニ突入ス」・扶桑社・2002)と述べた。私たちは,この無名戦士が年輪を重ねて看破した「戦争」の真実から目をそむけてはいけないと思う。そして,イラク戦争は「まだ終わっていない」。
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